説教要約(12月)

2023年12月31日(日)  説教題:「あなたがたへのしるし」  聖書;ルカによる福音書2章8~12節
 羊飼いは天使を前に恐れました。これが神殿や教会で祈っているタイミングでしたら、天使が現れてもそれほど驚かないかもしれません。しかし羊飼いがいたのは屋外、いつものように働いているタイミングです。例えば私たちが買い物をしたり家事をしているタイミングで天使が来たとしたら、どうでしょうか。神様と出会うにしては、ちょっと変なタイミングかもしれません。しかしながら、それは人間の考えです。神殿で祈る祭司や会堂で教える律法学者ではなく、外で働く羊飼いであることが大切でした。
 だから天使は「大きな喜び」を告げます。それは「あなたがたのために」救い主が生まれたという知らせでした。ここで重要なのは「あなたがたのため」と言われていることです。「世界中のため」とか「困っている人たちのため」とか、そういった抽象的な表現ではなく、ここでは「あなたがたのため」。天使の目の前にいる「あなたのため」に救い主が生まれたことが知らされます。神様が「私とみんな」ではなく「私とあなた」という一対一の関係を作り、そのために救い主が与えられました。もちろん、これは「民全体」とありますように人類全体への救いです。それを神様は「全体」ではなく「あなた」に告げました。全体の中に必ずいる一人のあなたに目を留めたからです。ここに救いの恵みが示されています。羊飼いは「あなたのために」救い主が与えられたという神様からの知らせを聞いたのです。
 思いもよらない形で羊飼いは天使と出会い、大きな喜びのしるしが与えられたことが告げられました。羊飼いたちのように、特別な立場や能力を持っているわけではない人たち。いわゆる「普通の人」に神様が働いてくれました。私たちも神様の前に何か特別なことができるわけではありません。特別に神様に近いわけでも、とびきり信仰が深いわけでもありません。羊飼いたちのように日々を過ごしている「普通の人」です。神様はそんな羊飼いに、救い主の誕生を告げます。これは同じような存在である私たちに、つまりはここにいるあなたに告げられたしるしです。私たちがベツレヘムで救い主を見つけることは、適わないでしょう。イエス様は既に天にいるからです。しかし私たちはベツレヘムに行かなくとも、一人ひとりが教会や自宅、聖書や祈りなどを通してイエス様に出会います。あなたの飼い葉桶の中に降りて来た救い主を見つけます。救い主の存在を私たちが感じるとき。それがあなたに与えられたしるしです。このしるしによって、私のために救い主が与えらえた、この大きな喜びを信じる確信が得られるのです。


2023年12月24日(日)  説教題:「泊る場所がなかった」  聖書;ルカによる福音書2章1~7節
 イエス様が与えられたのはローマによる人口調査の時でした。ローマによってユダヤにも平和がもたらされていましたが、それは大国の権威と軍事力によるものです。それを示す一つの事業がこの人口調査です。ローマの政治によって泊まる場所がなかったマリアとヨセフのように、居場所がなかった人たちがいます。名ばかりの平和、名ばかりの繁栄と幸せ。そこから漏れていく人たちがいます。
 泊まる場所がない、そして手を差し伸べてくれる人もいない。そんなどうしようもない寂しさの中で、しかもその寂しさが極まった馬小屋の中で、イエス様は誕生しました。しかしながらこの寂しさの中で生まれたキリストは、人間の思う寂しさを知っています。そして悔い改めを人々に示すことによって、寂しさの中で目を留めてくれる神様がいることを示してくれました。私たちを救うのはローマのような大国の権威でも、軍事力や財力でもありません。そこからこぼれ落ちる寂しさの中で誕生した救い主です。この救い主イエスキリストによって、人は寂しさの中でも生きていくことが適うのです。
 今日ここに集まった人たちの中に泊まる場所がない、という人はいないかもしれません。しかしながら泊まる場所があったとしても、そこに居場所がなかったり、寂しさや空しさを抱えながら生きていくことがあります。聖書に書かれている「泊まる場所がなかった」とは、決して家や宿がない状態だけを意味しているのではありません。私たちの居場所がない、心の拠り所がなくて寂しい。そのようなことを示しています。
 イエス様が来てくれる馬小屋とは、そのような寂しさの中にあります。私たち人間が抱える寂しさの中に、キリストは生まれました。だから私たちが寂しいとき。冷たく暗く苦しいときに、キリストは共にいてくれます。そしてその苦しさを共に担ってくれます。「神が共におられる」を実現するためのキリストが、誰もいなくとも寂しさの中で共にいてくださいます。それが泊まる場所がなかった、その時に与えられた救い主なのです。
 私たちの馬小屋に、飼い葉桶に、寂しさの中に、キリストは降りてきてくれます。そのために救い主は与えられました。泊まる場所がなかった私たちと、一緒にいてくれるキリストと共に、クリスマスを迎えましょう。

2023年12月17日(日)  説教題:「平和の道に導く」  聖書;ルカによる福音書1章67~80節
 ザカリヤはヨハネが生まれた後、聖霊に満たされて語り始めました。76節以下では洗礼者ヨハネについて預言しています。ヨハネはこれからイエス様の道を整えるために働いていきます。それはイエス様によって完成する悔い改めへの備えです。悔い改めによって、これまで頼ってきた武力や財力、権威から生き方の方向を変えることで、「主の民に罪の赦しによる救い」が与えられる、つまりはキリストを通して神様が人間の罪を贖います。悔い改めによって与えられる罪の赦し。キリストによってもたらされる救いです。そのための道をヨハネは整えていくことが、ここで預言されました。その救いによって導かれる先のことについて、7879節にはこのように書かれています。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」高いところからの光が私たちのところを「訪れ」ます。この光はキリストです。キリストはただ「高いところ」から照らしているだけではありません。人間のもとを「訪れて」、つまりは人のところまで「降りて」きてくれます。この光が先を照らし、導かれて歩んでいくのが「平和の道」です。ヨハネが整えた悔い改めを通して救いへと招かれて、平和の道に導かれていくのです。
 ヨハネが整え、キリストという光によって導かれていくのは「平和の道」です。ここでは「平和への道」ではなく「平和の道」とあります。「平和の道」とは、その道自体が平和である道、平和の内に歩むことができる道です。その道を歩んでいった先にある目標としての平和ではなく、今ここにある平和、私たち人間に示されている平和の道が、既にあるということです。私たちは既に神様から与えられた「平和の道」があるんです。それにも関わらず、人は武器を取ります。権威と財産のために人を殺します。平和の道への導きはここにあります。しかしそれを選ばずにずっと争いを続けているのは人間です。悔い改めて主に立ち帰ることを見つめず、平和ではなく戦争を選んでいるのは人間なのです。
 目に見える世界は争いや差別で溢れています。ですが目に見えないところで神様は平和の道を示してくれました。私たちが祈り求めていくのは、神様によって既に示された平和です。武器によらず、権威を求めず、ただ悔い改めて神様に向かうことで与えられる主の平和です。この世界ではずっと戦争が続いていますし、私たちの国も戦争ができる国に再びなろうとしています。本当に悲しいことです。
 クリスマスに与えられたキリストは、平和の道へと導くために世に来られました。こうして聖書によって、私たちには既に示されている「平和の道」です。ヨハネが備えてキリストによって完成した悔い改め。この悔い改めによって平和の道に導くキリストが、私たちには与えられています。このキリストと共に諦めることなく、平和の道に立ち帰ることを祈ってまいりましょう。


2023年12月10日(日)  説教題:「わたしに偉大なことを」  聖書;ルカによる福音書1章46~56節
 エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福します。それを受けてマリアは歌いました。それが書かれているのが今日の箇所です。
 マリアは神様の大きさを魂と霊によって讃えました。エリサベトに働いた聖霊はマリアの魂にも働きかけ、そしてマリアも聖霊に満たされてこれを詠ったことが分かります。マリアが救い主を受け入れ、それを幸いと理解したのは聖霊が働いたからです。神様が聖霊によって導くことで、この出来事を受け入れました。神様の偉大さを受け入れるのには、その人の言葉や説得ではなく、神様が働いてくれることが必要です。エリサベトを通してマリアには、それが実現しました。「力ある方」として神様がその偉大さ、大きさをもってマリアに働き、彼女は喜び、神様を崇めたのです。
 5153節には悔い改めについて書かれています。「主はその腕で力を振るい」とありますが、これは神様が働かれるときを意味しています。神様はどのようにして「その腕で力を振る」ったのでしょう。それは救い主であるキリストが与えられたことです。イエス様なしに悔い改めは完成しませんでした。神様はその腕を振るい、人間が悔い改めに招かれるために救い主を与えました。その救いの出来事がマリアの体を通して実現したのです。
 悔い改めのために救い主を与えて、その大いなる存在をもって恵みを与える神様は、今も私たち一人ひとりに働きかけてくれています。キリスト者は一人ひとりがキリストによって悔い改めに招かれ、それを受け入れました。マリアのように救い主を体によって受け入れることは、私たちにはできません。しかしここでマリアは霊に導かれて「魂」で、神様の大いなる存在を感じ、そして救い主を受け入れました。神様が自分に働いてくれた幸いに喜び、それを讃えました。霊に導かれて魂によってキリストを受け入れる。そのために神様がその腕を振るってくれる。これは私たちにも起こる出来事です。クリスマスに与えられた救い主を、私たちもまた自らの魂によって受け入れていくために、神様は働いてくれます。「魂によって受け入れる」。これは自分の全存在をもって受け入れることです。大きな存在である神様、そして救い主を、小さな存在である私たちが受け入れることによって、悔い改めることが適います。その出来事を魂から受け入れたとき、私たちは神様のその大きさ、大いなる存在を、崇めることが適うのです。
 神様はエリザベトに、マリアに、そして、わたしに偉大なことをしてくれました。私たちに救い主を与えて、それを受けいれるために腕を振るってくれたのです。

2023年12月3日(日)  説教題:「喜びとなり、楽しみとなる」  聖書;ルカによる福音書1章5~25節

 洗礼者ヨハネの誕生が告げられた場面です。ここで預言されていますように「準備の出来た民を主のために用意する」ことが彼に与えられた働きです。そのためにヨハネは荒れ野で悔い改めを語りました。

ヨハネの両親ザカリアとエリサベトは「非の打ち所がない」信仰者でした。しかし二人には子どもが授かりません。現代日本にも同じような偏見が見られますが、これは当時のイスラエルにおいて神様の祝福が与えられていないのだと考えられていました。そのようなザカリアは天使と出会いヨハネを授かることが告げられます。そして話すことも聞くこともできなくなりました。時同じくしてエリサベトは五か月もの間、身を隠します。二人は情報が遮断されました。そして神様に向かう時を過ごしていきました。

ここで二人が情報を遮断されたのは、神様に向かい天使の預言を理解するためです。天使は語りました。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」長年、子どもが与えられて来なかった二人にとって、ヨハネの誕生はもちろん「喜びとなり、楽しみとなる」ことでしょう。また二人に子どもがいないことを「なぜこれだけ敬虔な二人なのに」と思っていた人たちも、「その誕生を喜ぶ」出来事です。ヨしかしそのような視点で読むのであれば、この二人が周りの情報を遮断される理由にはなりません。神様によって身ごもったことを周りの人たちと祝福し合えば良いからです。

ここで二人が情報を遮断されたことはヨハネの誕生が、一家族と周囲の人たちだけが恵まれた出来事ではないと二人に理解させるためにありました。そのような視点を持って読んでいきますと25節に書かれた言葉の意味合いが変わってきます。身を隠した後のエリサベトはこのように言いました。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」これはエリサベト個人の「恥」というよりも、全ての人間にとっての「恥」だと考えると見えてくるものがあります。それはこの時点では多くの人たちが「準備のできた民」ではないということです。神様の前にキリストを迎える用意ができていない。その悔い改めず立ち帰らない「恥」。この恥が取り去られました。エリサベトとザカリアが沈黙によって得たのはその確信です。エリサベト個人、あるいはザカリアとの家族だけの問題ではなく、多くの人々が主の前に準備の出来た民となる。その少し先にある未来に約束された恵みだったのです。

 これは私たちにとっても同じように恥が取り去れた出来事です。。ヨハネの働きを通して準備され、キリストによって完成した「悔い改め」。それによってイエス様を迎え入れたのは私たちも同じです。このヨハネ誕生の出来事、恥が取り去れて準備の出来た民となることは、今を生きる私たちにとって喜びとなり、楽しみとなる。そんな恵みに満ちた出来事なのです。